めんたいぴりり【シリーズ:コトラーのマーケティング4.0を読む(その7)】

メディア編集部のタツカワです。「コトラーのマーケティング4.0 スマートフォン時代の究極法則」を引き続き読んでいきます。前回は、マーケティング3.0について解説しました。この記事では、マーケティング3.0を30年以上先取りした男について解説しました。その男の商品は、ある街の代名詞となりました。社会貢献に生きた男でした。
ギルドプロジェクト

こんにちは、メディア編集部のタツカワです。

 

コトラーのマーケティング4.0 スマートフォン時代の究極法則」を引き続き読んでいきます。

 

前回の記事では、マーケティング 3.0を30年以上前から先取りした男が日本にいたと書きました。

「人間中心」のマーケティング3.0【シリーズ:コトラーのマーケティング4.0を読む(その6)】

今日は、それについて解説します。

 

一人の男が作った商品が、ある街の代名詞になった

タイトルで察したと思います。

 

その商品とは、辛子明太子のことです。また、ある街とは博多のことです。

 

辛子明太子は、ラーメンや山笠祭りなどと並んで博多の代名詞となっています。

 

その辛子明太子を作り出したのは、川原俊夫という男でした。

めんたいぴりりとは、川原の半生を題材にした福岡ローカルドラマのタイトルです。後に映画化もされました。

川原の人生が、まさにマーケティング3.0を体現していました。

 

戦争が落とした暗い影と抱いた決意

川原は、1913年に当時日本に統治されていた韓国釜山で産まれました。

 

若い頃から、釜山の市場で売られていた「明卵漬」(ミョンナンジョ)という、タラコに唐辛子をかけた食べ物をよく食べていました。

 

それが後に、辛子明太子のヒントになります。

 

太平洋戦争の戦局が不利になる一方だった1944年、川原も陸軍に召集されます。

 

沖縄は伊良部島に送られ、仲間の多くを失いました。

 

その経験から、残りの人生は日本の復興と社会にために使いたいと、強く決意したのでした。

 

卸売りだけでなく、オリジナル新商品を作りたかった

 

戦後日本に戻った川原は、福岡県内にて食品の卸売りを始めます。1948年には、福岡は中洲に「ふくや」を開業しました。

 

そんな中、食品の卸売だけでなくオリジナル新商品もほしいと考えていた川原は、釜山にいた頃に「明卵漬」を思い出しました。

 

早速「明卵漬」を再現して、1949年に販売を開始しました。めぼしい容器がなく、金魚鉢で売ることにしました。

 

ただ、結論から言うと大不評。日本人には辛味が強すぎて、全く売れませんでした。

 

そこから、川原一家の挑戦が始まります。ミッションは、日本人好みの「明卵漬」を作ること。

 

タラコや唐辛子の品質だけでなく、唐辛子の微妙な配合でも味は簡単に変わります。その中で、最適な配合を探し当てるのに、10年近くかかりました。

 

従業員からは、社長の道楽と陰口を叩かれたこともありました。妻の千鶴子には、何度も試食してもらいました。

 

こうして、1957年に「味の明太子」を完成。現在の明太子の原型が完成しました。

 

最初は口コミから広まった

最初は、川原の子供が通う学校の先生や保護者たちから、「味の明太子」の評判が広まっていきました。

 

子供のPTA活動にも積極的に参加していた川原。その関係で「味の明太子」を買った先生や保護者たちの胃袋をつかんでいきます。

 

そこから、地元中洲の小料理屋でも明太子が採用されることが増えてきました。

 

さらに、知る人ぞ知る博多名物の存在は、博多以外にも知られるようになっていきます。1975年に山陽新幹線が博多まで開通すると、完全に辛子明太子は全国区になりました。

 

1980年に亡くなる直前まで、辛子明太子と博多の街を愛し続けました。

 

ここがマーケティング3.0

切磋琢磨するライバルを育てて、新たな街の名物に育てた

10年もの試行錯誤の末編み出した「味の明太子」。多くの人は特許を取るなど、自分の味を知られたくないと思うはずです。

 

しかし、川原は違いました。望む者には辛子明太子の作り方を教えていったのです。

 

きっかけは、近所のお店から明太子が置いていないか聞かれることが多くて困ると言われたこと。

 

そのお店からは「味の明太子」を置かせてもらえないか打診を受けましたが、品質にこだわる川原は拒否。

 

代わりに、辛子明太子の作り方を無償で伝授したのです。ただし、細かい味付けは各店で工夫するよう伝えました。

 

一つの店の売り上げだけ考えれば愚策でしょう。ただ、多くのお店で辛子明太子を作るようになったからこそ、辛子明太子は博多名物となったのです。

 

まず、ふくやだけでは辛子明太子を作れる数が限られます。しかし、多くのお店が辛子明太子が作れれば、その分多くの明太子を作れます。

 

また、細かい味付けは各店で工夫することで、各店の個性が際立ちます。「ふくや」派、「やまや」派など、消費者は各店の違いも楽しめます。

 

こうして、辛子明太子はふくやにとどまらず、博多の街を代表する名物となったのでした。

 

全ては愛する博多の街のために

川原は、自分が裕福な暮らしをすることには全くと言っていいほど無とん着でした。

 

地元の山笠祭りには毎年のように参加。資金難と聞きつけると、惜しげなく寄付しました。

 

また、自分が払う税金が公共サービスに使われるので、「税金をたくさん払いたい」と考えていました。

 

本当は、会社化すれば節税できることが分かっていても、あえて生涯個人事業主にこだわりました。

 

1979年には、福岡市の高額納税者番付でトップに立ちました。当時の個人所得は2億円以上でしたが、納税や寄付で手元には1500万円も残らなかったと言うことです。

 

 

ストーリーに共感、そして社会貢献と、マーケティング3.0を思わせます。

 

では、この記事を終わりにします。次の記事ではいよいよマーケティング4.0について解説しますので、お楽しみに!